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1973年、創業間もない当社を襲ったのは、オイル・ショックという世界を揺るがす時代の荒波。実績のない零細企業に注文はほとんど来なかった。その活路は海外で開かれた。アメリカに続いてアジア、ヨーロッパ各国と代理店を拡充し、1976年に米国日本電産を設立。創業からわずか3年で世界への足がかりを得た。
製品は精密小型ACモータからブラシレスDCモータ、ファンブロワー分野へと広がり、そして1979年、8インチ型HDD(ハードディスク装置)用スピンドルモータを世界に先駆けて実用化。その本格的な生産体制を整えるため1982年には峰山工場が新設され、発展への基盤が確立されたのである。 |
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日本でもワープロ・パソコンが急速に普及していった1980年代前半、当社はその将来性に着目し、HDD用モータの拡大に専念した。国内外の大手HDDメーカーからの要求に迅速に対応して受注を獲得。滋賀工場の新設、鳥取電産、岡山日本電産の設立で国内の生産体制の拡充を図るとともに、HDDメーカーの進出に合わせて設立したシンガポール日本電産を皮切りに、タイ、台湾、
中国(大連)、ドイツに事業拠点を拡大し、グローバル化の基盤をつくった。
また、アメリカのファンメーカー、トリン社を買収し、本格的にファン事業を開始。これは当社初のM&A;となった。さらに、1989年には競合であった信濃特機(株)を買収し、HDD用スピンドルモータのトップメーカーとして不動の地位を確立した。創業15年目の1988年には、株式を大阪証券取引所市場第2部、京都証券取引所に上場。これは製造業としては画期的な早さで、各方面から注目を浴びた。 |
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1990年代に入ると、コンピュータのダウンサイジングに伴うHDD用スピンドルモータの小型化への流れは、加速的に進行していった。当社は小型化、高精度化に果敢に挑戦し、技術力を蓄積。92年の中央研究所新設に続き、94年には滋賀事業所を技術開発センターに改組するなど、研究体制を整えた。同年、現在のHDD用スピンドルモータの主流となっているFDBモータの量産化にもいち早く成功し、次世代モータへの技術基盤を確立したのである。
また、M&A;による日本電産グループの拡大も、この時期から本格化。95年にはシンポ工業(株)と共立マシナリ(株)、97年には日産自動車系部品会社のトーソク(株)と新日鐵化学の子会社である(株)リードエレクトロニクス、さらに京利工業(株)に資本参加。これによって精密加工技術、検査・計測技術、プレス技術などモータの製造にかかわるさまざまな技術を、当社はグループ内に確保していった。 |
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97年度に連結売上高1000億円を突破した当社は、98年、株式を東京証券取引所市場第1部に上場するとともに、大阪証券取引所市場第1部に昇格した。その余韻に浸る間もなく、ニューヨーク証券取引所への上場をめざしての準備が始まった。そして、3年後の2001年にはそれを実現し、世界企業としての新たな一歩を踏み出した。
日本電産グループは、98年にコパル(株)とコパル電子(株)、芝浦電産(株)(当社と芝浦メカトロニクス(株)、(株)東芝と共同出資で設立)、99年にネミコン(株)、2000年には(株)ワイ・イー・ドライブが加わるなど規模を拡大。それにつれ、生産拠点の海外進出もさらに加速。とりわけ発展著しい中国大陸における生産拠点は、浙江省平湖市に日本電産グループの一大工業園を建設するなど大幅に拡充した。 |
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創業30年目を迎えた2003年、京都一の高さを誇る
「本社・中央開発技術研究所」ビルが竣工。また、日本電産グループには(株)三協精機製作所が新たに加わった。
2010年の売上高1兆円、従業員10万人の企業グループをめざして、さらにその先の目標に向かって。日本電産のあくなき戦いは続く。 |
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