| 第三章:奇想天外!新卒社員の採用法 | ||||
| 「便所掃除試験」の意味するもの | ||||
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「早飯試験」というのは、学生の間でちょっとした評判になったようである。何しろ、メシを食わせて、その早い順に採用したのだから、キャンパスでも話題になったに違いない。 「大声試験」も三年連続でやったものだから、翌年も「早飯試験」をするだろうと、メシを食う練習をしてきた者もいたようだ。昭和五十四年度に入社した連中に後になって聞くと、「もう鵜呑みにしてもいいから、お茶で流しこんでもいいから、どうしたら少しでも早くメシが食えるかを研究しました」と口を揃えて言う。 しかし我社は、こうした学生諸君の期待を大きく裏切ったようだ。 早飯試験で自信(?)をつけた私は、五十四年度の採用試験をどのような方法で行なうか、幹部を集めて話し合った。またもいろんな意見が出たが、結局は、「便所掃除試験」ということにおちついた。 今の時代に、入社試験で便所掃除をやらせる、などというと世間の顰蹙を買うやもしれないが、便所掃除は、実は我社の伝統なのである。昭和四十九年に、まず幹部が率先して一年間便所掃除をやり、そのあとの反省会で、企業を一つの“運命共同体”として考えていくならば、これは最高の基本教育だという結論になった。 以来、五十年の新入社員から必ず一年間便所掃除をするという慣習ができあがっていた。しかもこれは、雑巾、ブラシといった用具は一切使わず、すべて素手でやることになっている。 便器についた他人の大便を素手で洗い落とし、ピカピカに磨きあげる。こうしたことを続けていると、何も言われなくても、自然にお互いが便器をよごすまいという気持ちになってくる。こうした習慣が身につくと、トイレだけでなく、工場や事務所をよごしたり、ちらかしたりする不心得者もいなくなる。 延いてはこれが、“品質管理の基本”へと結びついていくのである。つまり、見えないところ、汚いところをきれいにすることは、商品であれば、外観や塗装のチェックだけではなしに、外から見えない内部や細かい部分にも気を配るようになる。 要は、見た目にはわからないから、誰も見ていないから、といいかげんになりがちなところを、便所掃除を行なうことによって、一人ひとりが入念にチェックしていく。こんな習慣を身につけさせようとしたのだ。 これを新入社員にやらせたところ、最初のうちは、次の日から来なくなる人間もいたし、なんとか理由をつけてサボる者もいた。すなわち、そういう問題児を頭から省くために、「便所掃除試験」を実施したのだ。つまり、いい人間を探そう、優秀な者を選ぼう、という発想とは逆で、我社の必要としないダメな人間をまずオミットしようという考えである。 このためのテストが、大声試験であり、その極めつけが「便所掃除試験」である。これさえできれば、あと若干の問題点があったとしても、入社後の教育で直していけると私は考えていた。 「入社試験にこんなことをさせるなんて、いったい何を考えているんですか」といって、早々と帰っていく者がいる。早飯試験の時と同じように、幹部に食ってかかる学生もいる。彼らは、我社にとって必要のない人間であることを自ら証明してくれている。 残った連中は、それぞれにトイレの中に消えていく。彼らが出てくると、入れ替わりに私たちが入って、入念にチェックしていく。知らない人が見たなら、滑稽な光景であろうが、我々は本当に真剣なのだ。 単に試験だから仕方なしにやっている人間や気の回らない者の掃除は、便器の裏側を見ればすぐにわかる。見える所はきれいにしてあっても、見えない所はほったらかしである。 しかし、本当にきれいにしようとする者は、裏側もきちんと掃除が行き届いている。正に裏表がないというのはこのことだ。恐らく便所掃除が好きで好きでたまらないという人間はいないだろう。けれど、いくらイヤであっても、裏表のない人間は、毎日毎日続けていると、そのうち便所掃除をやらないと気分が悪いというふうになってくる。 こうした積み重ねが、不良品を出したら直せばいいではないか、という気持ちから、不良品を出さないように努力しようという姿勢を、知らず知らずのうちに養っていくのである。 あのヨーロッパの優等生といわれた西ドイツを見てもわかるように、いわゆる汚い仕事はすべて外国人労働者にやらせてきた結果が、今日の西ドイツの凋落の遠因としてあるのではないかと、私は思っている。 ※本書は1984年にPHP研究所より刊行されたもので、内容は当時のまま掲載しております。 次回更新日:2007.3.14 |